震災
松の内は元旦から15日までであるが,最近はなんだかすごく慌しくて正月気分にひたるなんてことはほとんど感じられない。特に10日もすぎれば11年前の阪神大震災の日が思い起こされて心が痛む思いである。11年前のあの日,加古川市の設計入札が行われる予定日であったが,震災により1週間ずらされて行われた。入札のためにその市役所を訪れるのであるが,当時は大阪港回りで明石まで行き,半日かけて加古川市に着いた。幸い委託されることになったが,その後も半日かけて加古川市に通うことになった。通常は1時間少しでいけるところが,往復だけで一日がかりであったのを鮮明に覚えている。さらにそれから数日後,兵庫県建築士会の青年委員会の仲間から危険度判定の応援を依頼された。災害が起こったときに,中途半端にたっている建物の中に荷物などをとりに行って最中 余震がきて建物が倒壊するという二次災害を防ぐためのものでその建物の安全度を調査するのである。
兵庫県建築士会は北区にあり,インフラも含めて全く痛んでいない。しかし六甲山の南側は悲惨な状態で交通網が分断されていたので宝塚方面から北回りで士会のビルまで行くのである。ちょうどその時,私は近畿建築士会青年部会委員長をしていたので各方面の青年委員に声をかけ,空いた時間に応援要請をした。何の保険も無い状態のときである。しかしほとんどの人は快く引き受けてくれ,国交省(当時の建設省)のお声がかりで周辺建築士会本体が動くまでの1ヵ月半ほど,大阪士会青年委員のメンバーが独自で危険度判定に参加してくれた。危険度判定の次は被再度判定作業があり,それによって補助金や援助金の額が決まるのであるが,当時はその基準も整備されていなかったので 工事監理の経験と現地での目視と感に頼るしかなかった。
その後,宮城地震や島根の地震,中越地震,福岡県西方沖地震など大きな地震を経験するのだが,国交省の肝いりである程度の建築士の体制や判定基準は整備されているが,不景気とあいまって人材確保に苦労する話を耳にする。さらに,そういったボランティアに対する生活保証はいまだにない。阪神大震災で無理を承知で現地でボランティア活動に参加してくれた友人の一人が震災景気に沸いたハウスメーカーを尻目にボランティアのほとんどは仕事が取れず,その中の一人は廃業したという話を聞いたのは1年後のことである。